最古の世界地図
先人の文化や思想を知るには、その時代の[地図]が便利です。そこで[最古の世界地図]をご紹介しましょう。
時代はティグリス・ユーフラテス川でお馴染みのメソポタミア文明。四大文明のひとつで最古の文明とされていて、シュメール文明を始めとするメソポタミアで花開いた高度な文明をまとめてメソポタミア文明と云い、紀元前8000年頃には既に農耕が進んでいました。
この時代、地図が作られたそもそもの目的は、移動手段ではなく[地積測量]であったと考えられています。農耕が発達すると国家が成立し、もっと多くの人力が必要となります。用水路を作ったり争いが起こらない様、耕地の境界を定めたり、公平に課税する為、土地を測量して記録する地積測量が目的でした。つまり当時の地図は「領地を示し宣言する内容」で良かったのです。
しかし文明が発達するに連れ、次第に「知識を一望に表す目的の世界観」が作られる様になって行きました。これこそが世界地図の描かれる最初のきっかけとされています。


円と直線を組み合わせたもので、首都バビロンを中心とする円形の陸地が、海(その当時は「苦い川」と表現)に取り囲まれています。
紀元前2300〜500年頃まで使用されていた(出土のものは紀元前700〜500年頃のもの)粘土盤で出来たこの世界地図は、当時のバビロニア人が想い描いていた[世界像]が表現されたもので、基本的には円と直線で描かれた単純な地図です。
中心には首都バビロンがあり、ユーフラテス川の他、円の外には「苦い川」と楔形(くさびがた)文字で表記されており、どうやらこれが現在の地中海の事で、外円の部分を示します。当時は海という概念が無かったのですね。
また「苦い川」の外側には三角形の「空を支える山」が数カ所あり、この未開の陸地は「死後の世界」を表しているんだそうです。
さて、日本ではいつ頃、[地球]と呼ばれる様になったのか?調べてみましたら、1549年にフランシスコ・ザビエルが西洋地理学を持ち込んだ際、[大地球体説](「だいち・きゅうたい・せつ」と区切り、「だい・ちきゅう・たいせつ」ではない)という言葉が使われています。惜しい!ですね。
ただ、この頃から、しばしば[地球]と表現する知識人が現れ始め、書籍で初めて表記されたのは、1688年に[天文図解]全5巻を著した天文学者の井口常範(いぐちつねのり)氏だと云われています。
しかし、1852年に孝明天皇(明治天皇の父)への献上品として、水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)が贈った地球儀の献上文には[上大地国形表](「おおち・の・くにがた・を・たてまつる・ひょう」と区切る)、つまり地球儀ではなく[大地国形]なので、地球が球体である事は知っていても公にはまだ[地球]という言葉は確率していなかったようです。
*[上]は献上・奉るの意
この地球儀は、明治天皇の即位式に使用されたと記録されていますので、[地球]という言葉が一般普及され始めたのは、どんなに早くても明治時代(1868年以降)とする説が有力です。

[地球]という言葉そのものは中国発祥とされ、ペルシアよりシルクロードを辿って西洋の天文学が伝わった1300年頃(当時の暦書に表記)ではないか、と考察されていますが、今のところ名付け親が誰なのかは分かっていません。
史実として「地球が球体」である事と「海がいかに広大」なものかを実際的に証明して見せたのは、何と言っても大航海時代(15世紀半ば〜17世紀半ば)のフェルディナンド・マゼランとファン・セバスチャン・エルカーノのご存知[世界一周旅行](1519〜1521年)でしょう。


旅行といっても当時はヨーロッパ人におけるインド・アジア・アメリカなど大陸へ植民地的に進出するのが航海の目的。3年に渡る大航海の末、太平洋を大洋として最初に発見した航海探検家たちです。
航海後、作成された世界地図はかなり実際に近いものですが、なんだかちょっと変ですよね。
・・・デカくないですか、南極大陸。
実は、北半球にばかり大陸があってはバランスが悪いと考えた当時の人々が、架空の巨大な南極大陸を描いてしまった為、海は実際よりもまだ小さい面積に留まっています。当時マゼランの功績を讃え、この南半球に位置する架空の大陸はMAGALLANICA(マゼランカ)と名付けられました。
実際の南極大陸の面積はオーストラリアの2倍ほど(約1400万㎢)で、現在では[南極大陸]=英ANTARCTICA(アンタークティカまたはアンタークティック)と呼ばれています。
この南半球バランスの考え、[地球球体説派]の人々の間では、大航海時代よりもっと以前からあった様です。
それにしても、ずいぶん大きな南極大陸、ちょっと強引な気もしますね。

画像の大部分をWikipediaさんから拝借させて頂いております。
カテゴリ:地球誕生